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2023.03.14 会長の時間
杉原会長

1999年3月下旬三原の家を引き払い、大分に引っ越し、4月1日に大分交通に総務部長として入社しました。本日は大分交通の歴史についてお話ししたいと思います。

1896年、明治29年8月5日、後に大分交通となる豊州電気鉄道株式会社が別府~大分間に電車を走らせる会社として設立されました。実際に電車が走ったのは4年後の明治33年5月で、当時の別府町南町~大分町堀川間7.7㎞でした、日本で京都市電に次いで2番目、九州では最初の電車でありました。

当時電気に対する一般の人達の認識は低く「電車はエレキで走るから乗ると耳が聞こえなくなる」などとデマが飛び、苦しい経営が続きました。当時馬車と競争したなどといった逸話が残っている位ですから、スピードも遅く別府-大分間を1時間もかかっていたそうです。経営不振から豊後電気鉄道、九州水力電気株式会社と会社が引き継がれ、昭和2年に別府大分電鉄株式会社となります。この間、大野川の沈堕水力発電所を買収したり、九州水力電気は現在の九州電力さんの前身会社の一つと伺っており、九電さんとのご縁も深かったようです。

別府大分電鉄となってからは比較的順調に進み、堀川から新川への本社、車庫の移転、亀川までの路線延長、北浜-別府駅間及び新川-大分駅間の路線延長などを行いました。

太平洋戦争が始まると運輸業界の統合について国から強く要請されるようになり、これを受けて昭和20年4月、別府大分電鉄を存続会社として、県北の耶馬渓鉄道、宇佐参宮鉄道、豊州鉄道、国東鉄道、宇佐参宮自動車、別杵自動車の7社が合併し、大分交通株式会社が誕生しました。昭和20年代から30年代初めにかけては公共交通にとって黄金期で、かなり利益を上げていたように聞いています。ところが好事魔多し、昭和36年10月、大分市仏崎で別大電車が集中豪雨による崖崩れで大量の土砂に埋まる事故が発生し、乗客31人死亡、38人重軽傷を負う大惨事となりました。亡くなられた方の中には当時の附属小学校の生徒さんが多く含まれていました。私は入社以来社長になるまで10数年、仏崎の崖の上にある慰霊碑に毎年お盆前にお参りをしました。これは、今も引き継がれています。

災害は国東半島でも発生し、国東鉄道の橋梁がいくつも流されました。一民間企業でこれらインフラの復旧は難しく、昭和39年に一部廃止、昭和41年には全線廃止となりました。地方部の鉄道事業は、乗客の減少、設備負担の重さなどから次々に廃止を余儀なくされていましたが、最後まで残っていたのが、別大電車と耶馬渓鉄道でした。昭和46年国、県より別大国道の渋滞緩和の為別大電車の撤去の申し入れがありました。今となってみれば別大国道はあのように立派に拡幅されているのですから、撤去の必要はありませんでしたが、当時の土木技術では、急激に深くなっている別府湾の埋め立ては不可能だったそうです。別大電車自体当時それほど乗客減にはなってなく、十分に存続できたと思われますが、当時の大分交通幹部は国、県の申し入れを受け、わずかばかりの補償金で撤退することとしました。昭和47年4月4日をもって廃止しましたが、その後の耶馬渓鉄道の廃止なども含め、当時組合の力も強かった影響もあると思われますが、鉄道部門廃止に伴って発生した余剰人員を一挙に整理するといった措置を取らなかった為、その後の経営に長く重荷となりました。

時々、若手の経営者や転勤族の方から大分に市内電車があったら良いのにという意見を耳にしますが、今お話ししたような経緯のあった事、一度はがした線路を再び敷設することは極めて難しい事を是非認識しておいて頂きたいと思います。本日の会長の話を終わります。

 
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