HOME サイトマップ メール
クラブ概要
会員紹介
大分RC歴史散歩
週報
リンク集
動画
会長の時間
 
会長の時間 バックナンバー
2024.07.23 会長の時間
山本会長
"会長としての抱負"

私は昭和21年1946年に大分県竹田市に生まれました。

竹田と言えば岡城跡と滝廉太郎さんが有名です。岡城には鎌倉時代から砦のようなものがあり、志賀氏という豪族が治めていました。江戸時代の初期に中川秀成公が兵庫県三木から転譜されて来たときに城郭を造り、岡藩となり京都の町に似せた街並みを造って、関西からの商人をたくさん連れてきたと言われています。今でも但馬屋、津島屋などの屋号のお店が残っています。山の中の田舎町ですが、町民は誇り高く偉そうな人が多いと感じます。1㎞四方の小さな盆地の中で人がひしめき合って暮らしていましたから、仲が良い反面、隣近所がうるさいプライバシー等は何にもない所と感じていました。小学校から高校までここで過ごしました。滝 廉太郎さんや朝倉文夫さんは小学校の先輩になります。竹田市は隠れキリシタン伝説や歴史上の色々と面白いことも有りますが、そのうちご紹介したいと思います。

私の父は町で歯科医院を開業していました。我が家は祖父の代、明治の終わりごろから歯科医をしていましたから僕で3代目です。その頃の歯科医というのは生活も厳しく質素でつつましい生活をしていました。医院も借家の二階で母が受付や診療の手伝いをし、祖母が入れ歯の研磨をするという家内工業的な仕事場でした。

竹田の町には7-8軒の歯科医院が有り、どこも同じような形態でしたがその頃の先生は皆、職人芸のようなものを持っており、あそこは抜歯がうまい、あそこは入れ歯がうまいという町なかの噂で歯科医を選んでいたようです。朝から晩まで立ち仕事で働いて、やっと一家の家計を賄えるという有り様でしたから好んで歯科医になろうという人は殆どいません。しかし町の人の健康を与かる仕事ですから、町にはなくては成らない場所です。当然そこの長男が跡継ぎになると暗黙の了解が有り、私もこの家に生まれたのだから仕方がない 当然の運命と使命感のようなものを持って育ってきました。しかし本当のことを言うと、僕はバスの運転手になりたかったのです。

竹田幼稚園、竹田小学校、竹田中学校、竹田高校と進み歯科大学を目指して一応、頑張っていました。成績もそこそこ=但し、これは個人の感想に過ぎなかったことが後で思い知らされますが、見事に受験に失敗し人生初の挫折感を味わいました。戦後の団塊世代の始まりで世間ではすでに受験地獄が広がっていたのですが、竹田の田舎町には平和な空気が満ち溢れていたので緊張感のない生活を送っていたのです。恥を忍んで予備校に行くことになりました。熊本の壺渓塾という処でした。大分から行く人は殆どいなかったのですが私の母の出身は熊本県の阿蘇町で伯母が熊本に住んでいましたから熊本には故郷のような思いをもっていました。そこは熊本では有名な塾で熊大医学部を目指す秀才が多く、2年、3年と浪人して勉学に励んでいる人も沢山いました。彼らに刺激を受け何とか1年の修行で小倉の九州歯科大学に合格することが出来ました。

後に大分で仕事を始めますが県立病院の先生の多くが壺渓塾の同窓生で心強い思いをすることになります。大分RCでも岩尾さんが同じ塾生と聞いて仲良くしてもらっています。

浪人時代は挫折感と先が見えない惨めな気持ち等で委縮して、人生を嘆いていましたが、今になって考えると、自分を初めて見つめ直す機会にもなって社会人の自覚の原点が出来た時だったと思います。それに一緒に苦労した人たちとの友情は大学時代の学友とはまた違う素晴らしい心の繋がりがあり、人生の潤いにもなっています。浪人生活も悪いものではありませんね。

今日は父の話をしましたから、次の卓話は母のエピソードをお話ししたいと思います。

 
▲このページの上に戻る
Copyright(c)2006 OITA ROTARY CLUB,All Rights Reserved.