社会人一年生から10年間“ 職業奉仕と人の信頼 ”
私が大学を卒業したのは昭和48年1973年でした。大分市内の歯科医院に勤務し5年余り修行して昭和53年、1978年に現在地の大分市城崎町に開業しました。
その頃は歯科医はまだまだ不足していて、どこで開業しても患者さんには困らないだろうと言われていましたので5年も勤めて開業するのは遅い方でした。
いろいろの方々の縁が有って城崎のその地に開業することになったのですが、昔の呼び方で中島地区といった方が分かりやすく、周辺は官公庁街とその関連の司法、行政関係の事務所、道を隔てて大きなお屋敷がある静かな住宅街というところでした。勤めている人も多く、住んでいる人も多い所でしたが、開業してしばらくは近所の方たちは殆んど来てくれませんでした。自分なりに修行もしてきたつもりで腕には少し自信も持っていたのですがどうしてだろう、と落ち込んでしまいました。
その頃の主な患者さんは近くの機動隊の若い隊員、市役所の水道課の職員、それに不思議なことに宮崎台、ふじが丘の住人そして鶴崎地区の人たちでした。機動隊や市役所は近くですから理解できますが大分川と大野川を隔てた遠くの人たちがなぜうちに来てくれたのか不思議です。多分誰かがあそこはサービスが良いとか美人の衛生士が居るとか何かが口コミで広がったのでしょう。
上手だから来た。と思いたいところですが、そうでもなさそうでした。上手い下手は治療して数年以上経たないと分かりません。とにかく丁寧な説明と治療を心掛け、衛生士や従業員に患者さんを怖がらせないことと、接客態度、言葉使いなどを徹底的に教え毎日ミーティングを行い実行させました。その頃のモットーは大分で一番評判の良い歯医者になること。将来ニューヨークの5番街に支店を出すことでした。
みんな生き生きと楽しく働いてくれました。
患者さんは少なかったのでゆっくり説明をしながら時間をかけて治療しました。その頃大学時代に始めたブルーグラスのバンドもやっていたので音楽関係の方やOBSをはじめとするマスコミの方たちと仲良くなり、毎日飲みに行くうちに放送関係の方や広告代理店の方たちが治療に来てくれるようになりました。その頃はバブル経済で広告業界は特に景気が良かったので、仕事も良くしましたが、よく一緒に飲みにも行きました。開業して10年ほどしてやっと近所の事務所の弁護士さんや司法関係の仕事をしている方たちが治療に来てくれるようになりましたが、依然として近くの住宅に住む熟年層、高齢者層は顔を出してくれませんでした。が、ある時から急におばあちゃん層が来院するようになりました。どうしたんだろう?僕の入れ歯の評価が上がったのかな?と思ったら近所の高齢の先生が亡くなったからでした。
その先生はまじめで、入れ歯作りもお上手だったのですが、亡くなられて行き場を失った入れ歯難民のおじいちゃん、おばあちゃんが仕方なくうちに来られたというのが真相のようです。
このチャンスを逃さず入れ歯作りに熱を入れ、それまで学んだ研修会のノウハウを思い出しながら患者さんに満足してもらえる入れ歯を作ろうと努力しました。そのお陰か少しずつ近所の住民の方たちが来てくれるようになり、僕もやっと城崎の住人として腰を落ち着ける気持ちになりました。
昔からその地に住んでいる人達や、それぞれの地位を築いておられる方達は、それぞれ信頼できる医師や歯科医師を持っており、地方から出てきた若造などは簡単に信用はされないものです。人の信頼を得るためには10年の歳月がかかるという事を身に染みて実感しました。
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