"日常のデザイン・原研哉"
皆様は仕事で東京に行かれることが多いと思います。出張中、時間が空いた時に立ち寄られるお気に入りの場所は有るでしょうか。私はいつも銀座にあるフランスの紅茶店のマリアージュフレールでオーガニックのダージリンを購入し、お茶を頂きます。その後にはギンザシックスの蔦屋書店に向かいます。
この書店は、特に芸術関係の書籍が充実しており、本を介してアートと日本文化と暮らしを繋ぐことを目指しています。広くて気持ちの良い店内は、絵画、写真、建築、文学などのテーマ毎に本に囲まれた小部屋のような空間で構成され、中央スペースには絵画やデザインの作品が展示されており、いつまでも留まっていたくなります。これを企画、デザインをしたのが、日本を代表するデザイナーである原研哉さんです。日本デザインセンターの社長も務められる原さんの数多くの仕事のうち、皆様も直ぐに思い浮かぶのは無印良品かも知れません。原さんは2002年から同社のアートディレクターを担当されています。
無印良品の製品を使ってみますと、デザインは簡素で洗練されており、品質と使い勝手が良いと感じます。私に限らず、無印良品に潜在的な好意を持っている人々は、これらの特徴になんとなく同じように惹かれているのかも知れません。しかしこの製品の形の単純さは、柳宗悦が大正時代の民芸運動で述べた、民衆の古くからの暮らしに根付いた工芸品に美の姿があるという「用の美」とは異なります。あるいは西洋で、貴族の権力の表象としての複雑で重厚な装飾が、約150年前の近代の市民社会の到来とともに廃れ、替わり生まれた合理的なデザイン、即ち「シンプリシティ」とも異なっています。
原さんは、無印の背景に有る考え方は「Emptiness」、つまり空であることと言います。空っぽの器を目の前に差し出し、それを好む人たちによってそこに様々な期待や思いが盛り付けられてゆく。そのような解釈の多様性を受け入れる求心力の核となる製品作り、広告作りを行う事で、作る人と私達との間にコミュニケーションが成り立つと考えているそうです。
このEmptinessは、日本古来のものの考え方、感じ方の伝統に基づいています。応仁の乱以降の室町後期に生まれた、足利義政の書院造りや佗び茶に現れた思想は、それまでの絢爛を好んだ日本文化の対極にあり、「何もないプレーンなもののほうが人間の内面を映すにはよい。空の器に心情を託す方が単なる複雑さよりも高尚ではないか。」という考え方です。無印に見られる簡素さは、この日本の美的感覚のオリジナリティに実はルーツがあるのです。
原さんは対象となるものの本質を見抜き、それをデザインで表現します。それらは、日常に用いる製品から、建築物、オリンピックや万国博覧会のデザイン、企画など、様々に形を変えて展開しています。ただ彼は著作の「デザインのデザイン」の中で次のように述べています。「世界は技術と経済をたずさえて強引に先に進み、生活の中の美意識は常にその変化の激しさに耐えかねて悲鳴をあげています。このような状況の中では、その悲鳴に耳を澄ますことが重要です。」無印のデザインには、日本人がずっと持っている美意識をそっと引き受ける力があります。そしてこのデザインは、今や世界中で支持されているのです。
原さんは武蔵野美術大学や東京大学でデザインの教育にもたずさわっています。以前原さんとお会いする機会があり、次のように仰っていました。「大学は魔女の学校のようなものだ」と。原さんが学生にホウキを渡して、これにまたがって飛んで見せて、「ほら、飛ぶよ!やってごらんよ」と言います。学生もホウキにまたがって飛ぼうとしますが、誰も飛べません。でもしばらくすると、こつをつかんでふっと宙に浮く学生が現れはじめます。そしてその中には、原さんも見たこともないような新鮮な飛び方をする学生が出てくるというお話です。大学の学生から受ける刺激、若い学生だからこそ見えるものに惹かれるそうです。
私達は、デザインされていないものを見つける方が難しいほど、日々デザインに囲まれて生活しています。デザインは、その対象と私達とのコミュニケーションを担う役割を持っています。デザインから私達自身が欲しているものを教えられることも有れば、何もないデザインに私達が自分だけの意味を見いだすこともあります。
以上で会長の時間を終わります。ありがとうございました。
参考資料:原研哉 デザインのデザイン 岩波書店 2003/原研哉 日本のデザイン 岩波新書 2011
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